前回のインセンティブとモチベーションの話まで、私たちの判断や選択の失敗におけるメカニズムについて考えてきました。それでは、人々の行動を改善するにはどうすればよいのでしょうか。今回と最終回の次回では、行動経済学が提案するナッジという政策方法を紹介します。
第9回「行動を良い方向にナッジする(前編)」を解説していきます。
1. ナッジとは
ナッジとは、人々が選択するときの枠組み(選択フレーム)や環境を工夫することで、行動や選択を望ましい方向に誘導するという、新しい政策の考え方です。もともと、ナッジは、ひじで合図する(Nudge)という意味です。2017年にノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラーと、ハーバード大学ロースクール教授のキャス・サンスティーンが、この言葉を実践行動経済学(日経BP 、2009年)というベストセラーのタイトルに使いました。それ以来、学問の世界でも、政策の現場でも、行動経済学の革新的な政策アイデアを象徴する言葉として定着しています。
ナッジが革新的なのは、規制や税金・補助金など従来の政策とは異なって、あくまでも選択の自由を残したまま強制することなく、人々の行動に介入しようとするところです。こうした自由主義的な政策の考え方を、リバタリアン・パターナリズム(自由主義的介入主義)といいます。いわば、行動経済学が考案した政策理論です。
以下では、ナッジによる政策の実例を、枠組みナッジ、情報ナッジ、補助ナッジの3つのタイプに分けて解説します(図1)。
2. 枠組みで誘導するー枠組みナッジ
ナッジのうち、最も代表的な方法は、選択の枠組み(フレーム)に工夫を加えることで、人々の行動や選択を変えようとする枠組みナッジです。例えば、選択デフォルトへの介入が挙げられます。
・選択デフォルト介入
選択デフォルトとは、意思表示がない場合に選んだと見なされる初期設定のことです。そもそも、意思決定したり、何かを選んだりすることは面倒なので、無意識のうちに選択をサボってしまい、結果的にデフォルトで選択してしまうことがよくあります。そこで、望ましい選択肢をデフォルトに設定しておくことで、人々の選択を改善できるわけです。
例として、各種年金への自動登録制の導入があります。公的年金や企業年金など、老後の生活を考えれば加入することが明らかに望ましい制度があっても、加入の意思表示をして、手続きをしなければならないとすれば、その面倒さから結果的に、多くの人が、加入しないことを選んでしまいます。そこで、加入資格が発生した時点で、自動的に加入登録がなされる仕組みにする(つまり、年金加入をデフォルトにする)のが、デフォルト介入によるナッジです。アメリカ、イギリスなどでは、公的年金や企業年金に、こうした自動登録制を導入することによって、加入率を飛躍的に向上させています。
デフォルト変更によるナッジが、安価なジェネリック医薬品(特許期間終了後の医薬品)の利用率を上げる上でも効果を発揮したことは、よく知られています。日本では、2008年に処方箋のフォーマットを変更して、「ジェネリック医薬品への変更可」をデフォルトにしました。その結果、ジェネリック医薬品の利用率は、2008年の18%弱から2022年の80%前後にまで、飛躍的に上昇しました。
臓器提供の同意率も、デフォルト介入によって大きな影響を受けていることが知られています。臓器提供への同意がデフォルトになっているヨーロッパの国々と、臓器提供の意思表示が必要な日本などの国では、臓器提供に同意している人の比率に大きな差があります。また、アメリカでは、インフルエンザのワクチン接種の予約日をあらかじめ割り当てることにより、接種率を上げることに成功しています。これも、デフォルトナッジの良い例です(参考:Chapman et al.、Opting In vsOpting Out of Influenza Vaccination、 JAMA 304、2010年)。
・主体選択(アクティブ・チョイス)制
デフォルトを変えることだけが、枠組みナッジではありません。デフォルトそのものをなくして、必ず選択の意思表示を義務付ける主体選択(アクティブ・チョイス)制を導入するのも枠組みナッジです。
先ほど、企業年金に自動登録制を導入するデフォルト介入の例を紹介しました。しかし、自動登録された年金加入者たちの多くが、年金積立率をデフォルトの低いレートのままにしているため、積立額が一向に増えない問題が新たに出てきました。それに対処するために行われた枠組みナッジが、主体選択制の導入です。
この新制度では、新入社員は雇用後30日以内に、企業年金への加入・非加入の意思表示と、積立率の選択をしなければなりません。新制度の導入によって、将来の退職貯蓄を主体的に計画していくことがナッジされ、加入率とともに、年金積立率も大きく上昇したことが報告されています(参考:Carroll et al.、Optimal Defaults and ActiveDecisions、QJE 124、2009年)。
3. 情報で誘導するー情報ナッジ
4. 自制を助けるー補助ナッジ
全10回で下記の内容を解説しています。
- 第1回 速い思考と遅い思考
- 第2回 ヒューリスティックのわな(前編)
- 第3回 ヒューリスティックのわな(後編)
- 第4回 自滅選択のメカニズム
- 第5回 自滅を避けるには?
- 第6回 リスク下で起こしがちな行動(前編)
- 第7回 リスク下で起こしがちな行動(後編)
- 第8回 人はモノで動くか?
- 第9回 行動を良い方向にナッジする(前編)
- 第10回 行動を良い方向にナッジする(後編)